2015年4月26日日曜日

17歳の高校生が1年間の米国留学で学んだことの意味


17歳の高校生が1年間の米国留学で学んだことの意味  

                                                板野和彦

 

昨2014年は第1次世界大戦勃発から100年目にあたった。「戦争の世紀」の次の世紀である今では、国家間の対立に加え、テロリズムによる脅威や地域紛争が続いている。これに対して、EUは、複雑な歴史と感情を抱く隣国どうし(とくにドイツとフランス)が、かつて国土が戦場となった経験を反省して地域国家連合として、単に欧州にとどまらない平和な世界を希求する人類史的な努力を行っている。EUの直面する試練や苦悩がいかに大きくとも、それに代わるものがないからだ。2度の大戦とその後の東西冷戦を経た世界全体としても(当然我々もその一部だが)異国・異文化との平和的な共生の必要性を深く認識し、実現可能性を信じて追求していかなければならない。

欧州が戦場となった1914年、米国の青年たちが欧州に赴き戦病者の輸送を担ったことから出発したのがAmerican Field ServiceAFS)である。戦後彼らは世界平和のために何ができるかを真剣に考えた結果、高校生の交換留学プログラムを開始する。つまり、各国の高校生を米国の家庭で、また、米国の高校生を各国の家庭で、1年間生活させる。同年齢・同性の高校生がいて同じ高校に通うことが受け入れ家庭(ホストファミリー)の条件となっている(ただし、このプログラムは、1990年代以降は米国がハブにならないで、つまり、各国の高校生が米国以外の国の家庭にも派遣されるように拡大されている)。類似の高校生留学プログラムのなかでもAFSは100年間の活動実績(プログラム経験者・支援者の層の厚み)、留学生やホストファミリーの入念な選考、留学生やホストファミリーに対する地域支部のきめ細かな支援などの点ですぐれている。

このAFSプログラムに初めて日本からの留学生が参加したのが1954年。ということで、昨年11月22日東京でAFS設立100周年、日本支部結成60周年を祝う記念式典が行われた。高円宮妃による祝辞、ケネディ駐日米国大使のビデオメッセージに続いて、事前に予定されていなかった動画が上映された。なんと1963年にホワイトハウスでケネディ大統領が各国からのAFS留学生数百人を前に行ったスピーチの模様である。長身で若々しい、そしてキューバ危機を回避した直後の頼もしいリーダーである大統領は、高校生たちの心を即座に掴むと、こう続けた。「君たちみんなにとって米国の家庭で過ごした1年間は楽しく、充実したものだったろう。だからといって、僕は君たちに米国の友人になってもらいたい、などとは言わない。君たちには世界平和の友人になってほしいんだ」と。彼はその2ヵ月後暗殺された(そのニュースが日米TV同時中継の最初の映像となった)。それは世界にとって不幸なことであった。

チャーチルを賛嘆させたほどの自由な国(さらにその昔フランス人トクヴィルが感銘を受けた民主主義の国)、そして世界の「解放区」である米国は、第1次大戦以降、世界の経済的覇権を握ったが、その豊かさに裏打ちされた米国の良心と寛容性、懐の深さがAFSの基礎にある。おそらく、それを冷戦後にいかに発展させていくかを考え抜いた結論がプログラムのマルチ化(米国がハブにならない)であったのであろう。それを受けて、スローガンも当初の“Walk Together, Talk Together: Then Ye shall have peace”(ともに歩みともに語り合おう。そこから平和が生まれる) から“Learn to live together” (異質の人たちとの共生を学ぼう)へと変更されている。

 

私は、幸運にもこのAFSのプログラムによって1969年8月から70年7月まで1年間カリフォルニア州サンノゼ市(*)郊外のリマ家にお世話になり市立ウィロウ・グレン高校に通った(AFS受験と1年間の休学については岡山朝日高校の先生方の多大のご理解と応援を得た。また、お薦めにより滞在中の体験を「烏城」に書いた)。まだ「シリコン・バレー」という地域名も定着していない時期だったが、その中心の街サンノゼにはIBMの研究所があり、この一帯はブドウやアンズ、モモ、ナシなどが実る桃源郷のような農業中心地からハイテク情報産業のメッカへと転換し始めていた。その結果、急激な人口流入が起こり、果樹園が住宅地に変貌していった。

(*)「サノゼー」のほうが米語の発音に近い。スペイン語で読めばサン・ホセ。カリフォルニア州第2の都市。地中海式気候の温暖なところ。岡山市の姉妹都市でもある。

この高校は総合制をとっており生徒は約1000人。毎日1時間の体育が必修であったほかは各科目のなかから選択した授業を履修する(半年が単位)。私の選択したのは、数学ではCalculus(いわゆる微積。日本の数Ⅲを超える内容であった。ただし、このクラスをとっていたのは全校で数人だけ)。理科では、その後カリフォルニア州が環境先進派となっていくことにつながる生態学。国語にあたる英語では、スピーチとシェークスピア(ソネット数篇と3大悲劇、喜劇としてThe Tempestを原文で読んだ)。社会科では、米国史と宗教の歴史。いずれも日本で言えば大学教養課程のレベルであり、授業にも映像フィルムやOHPが多用されていた。また、部活としてトランポリンやミュージカルも経験した。外国語はフランス語やスペイン語を履修する生徒が多いなか、ドイツ語をとった。

 サンノゼ州立大の電子工学教授であった父(ホストファミリーでの父。以下同様)は動物心理学と英語を副専攻とし、オペラ鑑賞やハンティング、フィッシングなどが趣味。母は小学校のベテラン教師。その前の年に同じくAFSでブラジルに留学していた弟は夏休み後西海岸の名門スタンフォード大に進学した。父も兄も姉の夫も皆スタンフォードの卒業生。母の兄弟も魚類学の教授や音楽教師、その母は美術史の講師。これに対し父方の祖父はイタリア出身の実業家で当時は映画館を3つ経営していた。裏庭には、各種のツバキやバラが咲き乱れ、サクランボの木もあった。父はトレーラーを所有し、2頭のポインター犬を飼い、トレーラーを駆ってハンティングやフィッシングに州内外に家族で出かけた(もちろん私も一緒)。ガレージの脇に駐めたトレーラーの周囲が犬の遊び場で、犬が齧ったりしないよう、トレーラーに接触すると電流が流れる仕掛けを自分で作り、フェンスの修理はもとより、生コンを自分で運んできて庭の一部を舗装した。キジやヤマバトを撃つ散弾銃の火薬を自分で詰めた。ライフルで仕留めたシカは1週間ほどガレージにつるしたのち、肉屋に依頼してステーキ用のスライスと大きなサラミソーセージ数本と犬の餌用のミンチにした。米国の伝統であるDo it yourselfを絵に描いたような何でもこなせる人であると同時に、新作映画や新刊書に通じ、政治や哲学、クラシック音楽を論じる思想家でもあった。その父は、私が岡山の友人から送ってもらった実力試験の数学の問題を解いていると、傍で見ているだけではおさまらず「ちょっと貸してみろ」といって自分で解いてみて、「これは偏微分でないと不厳密だ」。私は「それは範囲外だから」と言い訳した。ハンティングの趣味を同じくする同僚教授たちとのランチにもよく連れて行ってくれた。父はおよそ男の子が求める理想の父親を体現した人物であった。ただ、当時はベトナム反戦の時代で、オハイオ州の大学での学園紛争に州兵が出動しことに対し全米で学生が騒いだ事件が起こったが、このことについて共和党保守派の父に私と弟は大いに反発した。その父は、学部長補佐に任じられ、別の大学から移ってきた反戦系の、学期末試験を放棄した若い講師やそれを支持する学生たちの処理に悩まされることとなった。

 帰国後5年経って、実の両親がリマ一家にお礼を言いたいと私が案内して岡山から出かけた。サンフランシスコ空港で出迎えられ、涙でグシャグシャになって両親とハグし合う私や、サンノゼの家に着いて「ちょっとあれとってきて」といわれて戸棚や冷蔵庫を開ける私を見て、実の父は「息子をリマ一家にとられてしまった」と(帰国後)悲しむあまり酒を飲んで暴れた。その後私だけでサンノゼを訪ねたときにその話をするとリマ氏は、「とんでもない。自分たちは息子を取り上げようなどと思ったことはない。実の両親がもともとよく育てたからこそ、君が私たちに馴染んで、それに深く感謝するようなったのだ。我々は環境を与えたに過ぎない」と述べ、このときも役者が何枚も上だ、と改めてリマ氏のことを一層敬愛するようになった。今年90歳になったリマ氏はいまもその家に一人で住んでおり、ときどき私とメールを交換しているが、私がいつもメールの中であの1年リマ家にお世話になった感謝の気持ちと彼に対する尊敬の念を伝えると、「君はリマ家の歴史の一部だ。私たちも君と一緒に過ごした1年のことをことあるごとに思い出している」と返事が来る。残念ながら、母は10年前に難病で亡くなった。この母が私を愛情深くかわいがってくれたため、弟はいまだにそのことで私を嫉妬しているくらいだ。

 

 17歳の日本人高校生が当時の米国の家庭に滞在して学校に通ったことの意味を問われると、英語の能力の向上やら米国事情への通暁をあげることが期待される。もちろん、それもあるが、一言で言えば、他人のメシを食うことである。居心地が悪くならないようにホストファミリーに気を遣う。偉ぶらず、縮こまらず、結局は自分らしく反応するしかない。自分に対する相手の好意や気遣いを心から喜び、ありがたいと思う気持ちを持てばお礼を言い、出来ることはお手伝いする。そのタイミングや程度を自分ひとりで分析し、実行するしかない(もちろん両親や兄弟、友人にアドバイスを求めもする)。でも、何より大事なのは、自然にそういう振る舞いがとれるようになったことだ。このことは家庭内にとどまらない。日本の学校でもそうであるが、同年代の仲間に対しては友情を抱くと同時に競争心が生じる。米国の高校生は同年代とは思えないほど「おとな」であり、日本とは比べられないほど社会的訓練を経ている(と感じられた)。それでも、自分でそれぞれの同級生との距離を測りつつ親しくなり、孤立しないで友情を育てることができることを学んだ。それをじっとホストファミリーは見守ってくれた。それが教育であり、環境を与えるということだろう。

 このような観察や感想は、私ひとりにとどまらず、同時期に日本から渡米した130人あまり(ほぼ男女同数。各都道府県から数人ずつ選ばれる)の同期生全員に共通であり、AFSの先輩、後輩も全く同じように感じている。高校生という、子どもであり、おとなへの移行期にある留学生が異国・異文化で生活することの意味が共有されている(各人それなりに悩み苦労したのだ)。

さらにいえば、各国からのAFS留学生が一緒になるとき(自分のではない高校も含めて文化祭やさまざまなグループの催し物によばれてスピーチや芸を披露する)や滞在最後のバストリップ(その地域に滞在した各国からの留学生が同じバスで米国各地を旅行し、全米4箇所の終結地点で自分たちの経験を交換する)があったが、そこでは、出身国や個性の違いを超えて、「居候」体験を共有していることがベースとなった強い友情が成立する。つまり、恵まれた環境や恵まれた生活を享受する機会を与えられることは、いかに多くの人々を巻き込みいかに不断に周囲への配慮を迫られるかということを、人生の比較的早い時期に悟り、それを実践するということである。

AFS生はホストファミリーの一員となることで、米国の(いまは米国に限定されない滞在国の)よき友人にならないわけがないし、自分を取り巻く環境に敏感にならざるを得ない体験を共通にする意味で、世界平和の友人にならないわけがないのだ。ケネディ大統領が言ったのは、こういうことであり、そのような活動をAFSは100年間続けてきたのである。

(付言すると、AFS本部への莫大な寄付金、ホストファミリーへの税額控除などの財務的支援措置があり、当時は日本政府からも支援を受けており、留学生の親には子どもが滞米中に本部から小切手で支給される小遣い(月16ドル)となる10万円(当時の為替レートは1ドル/360円)を事前に払い込む以外の金銭的負担がなかった。寛大さの点で、大人のためのフルブライト奨学金、高校生のためのAFS奨学金といわれる。)

 

 その後、大学入学以来東京ベースであったが、ワシントンDC(3年間家族とともに)とテキサス州ヒューストン(4年間単身で)に駐在した。石油や天然ガスの開発のために、欧米のほか中国、ロシア(ソ連の末期から)、ミャンマー(ビルマ)、インドネシア、イラク、モザンビーク、コンゴ民主共和国(ザイール)、アラブ首長国連邦などへ出張し、相手国政府、国営石油会社や大手の国際石油会社と交渉し現場をみる機会に数多く恵まれた。国や会社が違っても、何とかして石油や天然ガスを発見し地上に取り出すという事業、そしてその中でも専門分野を共通にしていることがベースとなって相互理解や友情、同志愛が成立することを体験してきた。もちろん、誤解や利害対立は避けられないが、相手も自分もともによくなる可能性(ウィン・ウィンとなること)を追求する立場・姿勢は理解される。そしてそのことはAFS留学のときに培われたことが基礎となっている。相互依存関係、そして異質のものとの共生は、現代も将来も地球レベルで避けられない。「モノ、カネ、ヒト、情報は国境を越えていくが、国だけが国境を越えられない」という言葉は示唆に富む。グローバル化とは人間の活動が地球規模で行われるということであり、それは人間の本性に発する。これに対してインターナショナルという言葉は「ナショナル」(=主権国家や個別の文化)という制約(=枠)があることを前提としている。しかし、個人や個人の集団である企業は、いずれかの国や文化に属してはいても、その活動は歴史的にグローバル化し続けてきた。つまり、グローバル化の担い手は「ナショナル」という個別性を背負いつつ、それぞれの社会的発展の多様性を相互に認め合いながら、より広く大きな土俵での競争(切磋琢磨)に巻き込まれ、より合理的、より効率的、より魅力的なもの(すなわち普遍性)をこれまでも追求してきたし今後も追求する。だから、グローバル化は目標などではなく、「事実」ととらえるべきである。その立場をともにする畏友たちと3年前から岡山朝日高校で「グローバル人材のための教養講座」を開かせていただいている。

(昭和46年卒。サハリン石油ガス開発㈱常務取締役。東京工業大学非常勤講師)